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ゲームや刑事ドラマのブログです。      ゲームはxboxを中心にあれこれ書いていく予定です。 相互リンク大歓迎です。
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04.20.18:43

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  • 04/20/18:43

04.10.00:08

ザ・ドリフターズ&ハナ肇とクレージーキャッツ

こんばんは、管理人です。
今日は管理人が好きな芸能人について書きます。
(wikiを基にまとめました)
「ザ・ドリフターズ」(今回はバンドとしてのドリフを書きます。)
・日本のミュージシャン
・一般的には、いかりや長介が正式リーダーになった
1964年のドリフ再結成以降(新生ドリフ)が知られているが、
結成は1957年(1955年または1956年の異説あり)。
結成当初からいかりやがメンバー入りするまでは
音楽バンドとして活動していた。
楽曲主体による音楽ネタなどを得意としており、
テレビや映画出演が多くなるにつれ、コミックソング、コントやギャグが主体となっていった。
・いかりやが正式リーダーに就任した2年後の1966年には
ビートルズ日本公演の前座を務め、僅か40秒の演奏時間ではあったが、
前座用のステージが別に作られていたにもかかわらず、
ドリフターズだけはビートルズと同じステージで演奏した。
ちなみに後にメンバーになる志村けんは観客席で観ていた。

元・新生ドリフメンバー
・いかりや長介(1931年11月1日 - 2004年3月20日)
ドリフの三代目リーダー。
1962年にドリフのメンバーとなり、1964年より正式リーダーとなる。
新生ドリフでは最古参メンバーだった。
ベース担当。

・荒井注(1928年7月30日 - 2000年2月9日)
元・正メンバー。1964年高木と同時にドリフ入り。
ドリフ入りした当初は「リーダーより年上では何かと問題がある」
ということで、加入後しばらくは高木とほぼ同年代(1934年生まれ)と
サバを読んでいた。
なお、当初はドリフのメンバーですら彼の正確な年齢を知らなかった。
レパートリーの少ないキーボード(ピアノ)担当。
いかりやの著書によれば、
いかりやは彼のレパートリーの少ないことを知らないまま
ヘッドハンティングしたことを後悔したという。

・すわしんじ
元付き人・見習い。幻のドリフ第六の男。
ファンの間では「5人のメンバー+荒井+すわ」をドリフメンバーと認識する人が多いが、正式なメンバーではない。

グループ内の音楽では、ドラムを担当することもあった。

現・新生ドリフメンバー
・加藤茶(1943年3月1日 ~)
1962年メンバー入り。1964年のドリフ再結成当初では最年少だった。
いかりや没後、現行ドリフでは最も古いメンバー。ドラム担当。
グループ内ではいかりやとぶつかることもあったが、
メンバーの人間関係の調整役の役割を果たしていた。
加藤はいかりやの弔辞を読んだ。

・高木ブー(1933年3月8日 ~)
1964年荒井と同時にドリフ入り。自称、いかりや没後の四代目リーダー。初期ではリードギター担当。最も印象が薄いが、
「ドリフの中では最も音楽性が高い」とのいかりやの評価もある。

・仲本工事(1941年7月5日 ~)
高木、荒井の次にドリフ入り。
初期のドリフでは、ギターとロック系ボーカル担当。
ビートルズの前座で「ロング・トール・サリー」の
ボーカルを取ったのも彼である。

・志村けん(1950年2月20日 ~)
脱退する荒井の後釜として1973年12月にドリフ見習いとなり、
1974年4月に正式メンバーになる。
映像では荒井の脱退後にキーボードを弾いていたとはいえ
元々コメディアン志望であり、ミュージシャンと呼んで良いかどうかは
疑問が残るが、ソウル・ミュージックに精通している。

シングル・レコード
・ドリフのズンドコ節(1969年11月1日リリース)
原曲は「海軍小唄」。荒井注脱退により差し替えられた、
「志村けんバージョン」もある。
オリコンでは80万枚を超えるセールスを記録し、
ザ・ドリフターズで最大のヒットとなった。

・いい湯だな(ビバノン・ロック)(1968年6月10日リリース)
オリジナルはデューク・エイセスの歌ではあるがドリフターズの方が有名。

・ドリフのほんとにほんとにご苦労さん(1970年4月25日リリース)
原曲は「軍隊小唄」。

ドリフターズで最大のヒット曲「ドリフのズンドコ節」の
貴重な映像を載せます。(荒井注在籍時)
管理人の好きな曲


2001年に紅白歌合戦に出場した時の動画です。


話を変えて、ハナ肇とクレージーキャッツについて書きます。
「ハナ肇とクレージーキャッツ」
・日本のジャズ・バンド
・ドリフターズの先輩(渡辺プロダクション時代)
・クレージーは多数のコミックソングを世に送り出している。
グループ名義の楽曲は、大半は植木の独唱であるが、
サビの部分のみメンバー全員で合唱する場合もある。
デビューシングルの「こりゃシャクだった」にはメンバーによる
寸劇が挿入されている。
「五万節」「ホンダラ行進曲」」「悲しきわがこころ」「新五万節」は
植木を含む全メンバーが1コーラスずつ歌っている。また「実年行進曲」は全員の合唱・谷・ハナ・植木の順で1コーラスを4小節ずつ歌い継ぐ構成になっている。

メンバー
・ハナ肇(1930年2月9日 - 1993年9月10日)
ドラムを担当
音楽への情熱は捨てがたく、
1985年に谷啓や「キューバン・キャッツ」時代のメンバーであった稲垣次郎らなどと「ハナ肇とオーバー・ザ・レインボー」を結成し、
ジャズクラブでの演奏活動も行っていた。
1993年肝臓ガンのため死去。

・植木等(1927年2月25日(実際は1926年12月25日) - 2007年3月27日)
ボーカルとギターを担当
ボーカルとして数々のコミックソングがヒットし、
テレビでも「お呼びでない?」など、後世に残るギャグで爆発的な人気を得る。
1990年には自身のヒット曲メドレー「スーダラ伝説」で人気が再燃し、
23年ぶりに第41回NHK紅白歌合戦にも出場(この年の歌手別最高視聴率を獲得)した。
翌年の1991年には、自身初となる全国ソロコンサートツアーも行っている

・谷啓(1932年2月22日 ~)
トロンボーン担当
トロンボーン奏者としても、「スイングジャーナル」紙の人気投票では、1959年から1965年まで連続してトロンボーン部門のベスト5に入っていたほどの実力者である。

・犬塚弘(1929年3月23日 ~)
ベースを担当

・安田伸(1932年9月19日 - 1996年11月5日)
テナーサックスを担当

・石橋エータロー(1927年9月30日 - 1994年6月22日)
ピアノを担当

・桜井センリ(1930年3月20日(実際は1924年3月20日) ~)
ピアノを担当

ディスコグラフィ
・スーダラ節(1961年8月20日)
(作詞:青島幸男、作曲・編曲:萩原哲晶、歌:植木等)
売り上げ50万枚以上の大ヒット。第4回日本レコード大賞企画賞受賞。

・ドント節(1962年1月20日)
(作詞:青島幸男、作曲・編曲:萩原哲晶、歌:植木等)

・無責任一代男 / ハイそれまでョ(1962年7月20日)
無責任一代男
(作詞:青島幸男、作曲・編曲:萩原哲晶、歌:植木等)
ハイそれまでョ
(作詞:青島幸男、作曲・編曲:萩原哲晶、歌:植木等)

・だまって俺について来い(1964年11月15日)
(作詞:青島幸男、作曲・編曲:萩原哲晶、歌:植木等)
『こちら葛飾区亀有公園前派出所』のテーマソングの基歌

・ゴマスリ行進曲(1965年4月5日)
(作詞:青島幸男、作曲・編曲:萩原哲晶、歌:植木等、ハナ肇とクレイジーキャッツ)

植木等さんが紅白歌合戦に出演されたときの映像です。
歌っている曲は植木さんのメドレー曲の「スーダラ伝説」です。
世界最高の歌唱力の持ち主です。
この人、神です。本物のエンターティナーです。


クレージーキャッツのヒット曲の「スーダラ節」です。
この曲、神曲です。



これこそ貴重映像!!
クレージー・キャッツとドリフターズの共演映像です。


植木さんと加藤さんが共演した時のコントの映像です。


今回は長々と書いてしまいました。
すいません。
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